请问有好心人给我提供一些关于日本木屐的书籍或者文章么?最好是日文的~

我想写木屐的演变和发生改变的原因,各种找不到资料啊~毕业论文要用,各种求帮助~~~~~(>_<)~~~~

只能找到这些了,做下参考吧。

【这是历史相关】
法政大学出版局『ものと人间の文化史104 下駄』
同 『 同 8 はきもの』
着物の歴史と日本の衣装の歴史、浮世絵及び絵巻、江戸の衣装风俗、に関する书籍各数册

以上を手持ちで持っています。いずれもご质问内容に関系する记述がありますが、なかでも『下駄』がもっとも详しく且つ论拠をひいていましたので、そちらの记述の概要を。

・”下駄”という言叶の出现は戦国时代顷とされているが、根拠は明确となっていない。(それ以前の呼び名は足駄)
・”下駄”という言叶が、全国的に普及したのは、江戸末期~明治时代
・”駄”という汉字の语义は、「足を乗せる」だったが、やがて「履物」へと変化していった。
※これについては根拠は示されていませんでしたので、语源辞典や汉字事典などで裏をとることをお勧めします。

下駄そのものについてはご存知とのことですので、详细は省略しますが、ここまで言叶の変化が进めば、あとは”下(地面)用の履物”が「下駄」と表记されるようになるまではすぐでしょう。
(ちなみに、ご存知かもしれませんが、”下用の履物”の认识=”上(席)用の履物”の认识の出现となりますので、同时期に席駄(雪駄)の语が普及します。このあたりは、いくつかの风俗関系の书籍との読み合わせから、茶の汤の文化の影响が多大にあるように个人的には思われます。)

●蛇足ですが。
先生のおっしゃったという「下駄は日本语ではない」という说は、下駄(足駄)の歴史的に考えるとわからないでもないですが、上记の说に比べ、说得力に欠けると个人的には思います。
下駄そのものの由来が大陆の木靴「ゲキ」にあることはご存知かと思いますが、呼び名としての下駄/足駄は、935年前後に成立した『倭名抄』での「阿师太」が初出です(前述书『下駄』より)。木靴をはじめとする中国の衣装风俗の到来は古坟时代と推测されていますから、约500年の空白があります。
日本固有の言语は、古坟时代には存在していましたし、文字も、意味に関系なく発音だけで汉字を流用していました(そのために、训読みというものが登场したわけですが)。
ですので、「アシダ」もしくはそれに近い発音の言叶が大陆由来だというなら、约500年间、その呼び名が文献に登场しなかったのは不自然です。(「ゲキ」は登场しています)。
これらから考えて、先生のおっしゃったことは、どこかで勘违いされた资料を元にしているのではないかと思う次第です。
もちろん、私の知らない资料や根拠を元にされている可能性もありますので断言はできませんが。
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下駄(げた)は、日本の伝统的な履物。足を乗せる木制の板に、歯と呼ぶ接地用の突起部を付け(歯がないものもある)、眼と呼ぶ孔を3つ穿ち、そこに鼻绪を通す。足の亲指と人差し指の间に鼻绪を挟んで履く。(歴史的には、人差し指と中指の间に鼻绪を挟む履き方もあった)。
呼び名の成立は戦国时代と推测され、下は地面を意味し、駄は履物を意味する。それ以前は「アシダ」と呼称された[1]。(汉字は様々な字があてられていた。)
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【下面是维基百科里的资料】
用语と构造[编集]

下駄の侧面図
日本には绪を用いる履物として、足を乗せる部分に木の台を用いる下駄、草や树皮などの柔らかい材料を用いる草履(ぞうり)、绪が踵まで覆い足から离れないように踵の後ろで结ぶ草鞋(わらじ)の3つがある。下駄は中国及び朝鲜半岛にもあるが、日本语の下駄にあたる言叶はなく、木靴まで含めて木履という。(一说では木靴のなかでもゲキ(木偏に支)と呼ばれる形状のものが、日本の下駄の原型になったという。)
人の足を载せる部分を台という。现代では、材は主に桐、杉が使われる。暖かい地方より寒い地方のほうが年轮が细かくなり、见た目に美しいため、东北地方の桐材は高级とされる。(糸柾目と称す)。特に会津の桐材は下駄の台としての评価が高い。杉では神代杉と大分県日田市の日田杉が有名。
台の下に付けるのが歯で、通常は前後2个だが、1个のもの、3个のものもある。一つの木から台と歯を作るものを、连歯下駄(俗称くりぬき)、别に作った歯を台に取り付けるのを差し歯下駄という。歯が一本の「一本歯下駄(高下駄)」は、天狗や修験者が履くイメージが强い。そのため、山での修行に使うとも言われる。「舟形」あるいは「右近」と呼ばれる、歯が无いものもある。 歯の材は樫、欅、朴(ほお)など。特に朴は树种の中では高硬度で歩行时の摩耗が比较的少なく、下駄の寿命が长く、重宝された。『朴歯の下駄』という题名の小说や、バンカラ学生が履くのは朴歯の下駄、という时代もあった。また、磨耗した歯を入れ替える商売も存在した。
台には3つの穴を穿つ。前に1つ、後ろに左右并んで2つ。これを眼という。後ろの眼の位置は地域によって异なり、関东では歯の前、関西では歯の後ろが一般的である。
眼に通す纽を、绪または鼻绪という。鼻绪はもと、绪の先端部の足指がかかるところを意味したが、今では绪の全体を指すようになった。绪の材质は様々で、古くは麻、棕榈、稲藁、竹の皮、蔓、革などを用い、多くの场合これを布で覆って仕上げた。色とりどりの鼻绪があることから「花绪」とも书く。
下駄の使われ方[编集]
かつて道路が舗装されていなかった时代には、雨などが降って道がぬかるむと、草履等では、ぬかるみに足が埋まってしまったが、高さのある下駄は、ぬかるみに埋まりにくかったため重宝された。
下駄は普段着と组み合わせることが多い。浴衣の际は素足に下駄が基本である。今では和装に组み合わせる事がほとんどだが、かつては普段着の洋装に下駄を履く场合もよくあった。男子学生がファッションとして崩れた洋服(学生服)などに下駄を履いていることをバンカラと呼ぶ。
现代の日本では、ビニール素材の軽装履(サンダル构造の草履)やスニーカーにとって代わられ、一般的には履かれることは少なくなった。これは、1964年东京オリンピックを契机に、それまで9割以上が砂利道であった市町村道にも急激にアスファルトによる舗装が広まっていったこととも関系していると思われる。舗装した道路で下駄を履いて歩くときにカラコロと音を立てて歩くと下駄の歯が异常に早く摩耗してしまうのが嫌われた事、後述するように騒音と受け取る人が増えたのが原因と考えられる。
1995年顷以降[要出典]、若い女性が「かわいいし、音がいい」と下駄を普段履きとして履く若年女性が増えた。また、浴衣の流行に伴い、下駄の人気も回复しつつある。
温泉の旅馆では浴衣と下駄が备え付けてあり、外汤に行く场合は旅馆は下駄を贷し、それを履いて出かける。城崎温泉、鸣子温泉など、下駄履きを前提としたまちづくりをした温泉街もあり、下駄のレンタルがある地域もある。
なお、裁判所に行くとき、下駄は禁止である。下駄で行くと裁判所が用意したゴムのサンダルに履き替えさせられる。後述するようにゴムを张った下駄であっても同様の措置が取られる。
下駄の生产は広岛県福山市松永地域や大分県日田市を中心に、福岛、长野、新潟、秋田、静冈などの产地がある。
下駄の种类[编集]
足駄
歯を台に差込む构造のもの(初期には一木から缲りぬいた)。歯が通常のものよりやや高い。平安时代後期から江戸时代ごろまで用いられ、江戸期にはもっぱら雨天の履物であった。この项目、日和下駄の部分を参照。また、旧制高等学校生徒が履いていたのもこの种の下駄である(=朴歯の高下駄)。マント、弊衣破帽、高下駄が 高校生のシンボルとされた。
山下駄
歯、台ともに一ツ木を刳りぬいてつくったもの。江戸初期に樵夫がつくって江戸に売りに出たのでこの名がある。台が四角で、桐制が多かった。
吉原下駄
ほぼ山下駄に同じだが、杉制。鼻绪は竹皮。江戸初期から中期ごろ、吉原の游び客が雨に降られたときに待合茶屋が贷した。
ぽっくり下駄
吉原の花魁、嶋原の太夫に付く秃の履き物。舞妓、半玉、といった年少芸妓もこれを履く。または一般の幼い女子や少女の履き物。逆台形の黒涂り、もしくは白木のやや高めの下駄。畳表であることも。台の部分には豪华な金莳絵などが施されることも。中に铃を入れることもあり、歩くと音がする。别の呼び方として、「おこぼ」、「こっぽり」、「こぼこぼ」など。
露卯(ろぼう)
差歯の下駄で、台に歯のホゾが见えるもの。江戸初期ごろ。
柳下駄
柳の台に朴歯。差歯が抜けにくいのが特徴で、上方からの下りもの。17世纪後半に花柳界ではやった。
马下駄
今の下駄の直接の祖先にあたる。杉制で差歯、角型。台の下をひし形に刳りぬいてあるために歩くと马の蹄のような音がしたという。
驹下駄
马下駄をさらに进化させたもので、雨天だけではなく晴天にも履ける日和下駄である。17世纪末期に登场し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄である。
桐下駄
驹下駄登场の少し後から高级品、嗜好品として用いられるようになった。初期は黒涂りであったが、後に木地のものがふつうになった。
小田原下駄
18世纪初头、江戸の鱼河岸で生れた。後の日和下駄、利久の原型。蚁さし歯を用いて歯の根が台にあらわれず、歯がすり减れば入れなおすことができるという点が利点。また鼻绪に革を用いたところに特色があり、全体的に上品な仕上げであった。高级品であったが、河岸の鱼屋が好んで履いた。
外方(げほう、下方とも书く)下駄
台は桐の柾目、歯は樫の木丸歯。下り坂で履き心地がよいとされて、18世纪初期に流行した。菱や瓢箪の刻印を打って他のものと弁别したという。
助六下駄
歌舞伎十八番『助六』で主人公がはいている下駄。初演时(1713年)に流行した。台は桐の糸柾目で、小判形、朴の差し歯。
右近下駄
表面がカーブした歯のない下駄。土踏まずの辺りをくりぬいている。现代では、底にスポンジ张りが一般的。台表面に鎌仓雕などの装饰を施したものが多い。
日和下駄
足駄(雨天用)に対する意味でこの名がある。时期によって定义はいろいろとあるが、男物の场合は角形で台は桐(糸柾目が高级品)、长さ七寸二~三分(女物は五分ほど短い)。歯は二寸二分程度がふつうで(大差という)、これを三寸三~四分にすると(京差という)、足駄(高足駄)というようになる。
利久下駄
差歯の日和下駄。主に上方のみでこの名がある。千利休が考案したといわれる。
吾妻下駄
日和下駄の表に畳を打ちつけたもの。江戸末期に流行した。桐の台、赤樫の歯。鼻绪はビロウドが多く、低いものが主流だった。
鉄下駄
木ではなく鉄で作られた下駄。
高下駄
歯が上下方向に长いもの。普通の下駄より高さがあり、履くと身长が高く见え、高下駄と呼ばれる。歯が厚いものを书生下駄と呼んだり、歯が薄いものを板前下駄と称する。
厚歯
下駄の歯が前後の方向に厚い寸法のもの。高下駄で厚歯のものがあり、特にバンカラと呼ばれた学生に爱用された。 金色夜叉で贯一がお宫を下駄で蹴り飞ばす场面で贯一が履いている下駄がこれである。
田下駄
弥生时代の遗迹からも発掘されている、日本で最も古い履き物。田んぼでの农作业に使ったり湿地を歩くために使ったと思われる下駄。これが日本の下駄の原型だと思われる。
一本歯
下駄の歯は2本だが「一本歯下駄」も存在する。山道を歩くための下駄であり、山の中で修行する僧侣や山伏などの修験者が主に用いた。このことが由来となって天狗が履いていたとされ、「天狗下駄」とも呼ばれる。昔は越後狮子など芸能や曲芸をする者がバランス能力を见せるために履いたが、近年改めて体のバランス感覚(平衡感覚)を养う、足腰を锻える、整体やリハビリなどに良いとして子供から大人まで履かれることもある。
下駄スケート
下駄の歯に鉄制の刃を取りつけた日本独特のスケート靴。明治から昭和30年代中顷まで日本各地で用いられた。
八ツ割(ヤツワリ)
台表面にイグサや裂いた竹を编んだ表(おもて)を贴り、台自体に七つの切れ目を入れて歩行时に足の裏に台が追随するようにした下駄。歯はない。地域により呼び名が异なり、八ツ割は関西圏での呼び名。その形状から、雪駄に准ずる扱いをする场合もあるようであるが、明确ではない。现代では裏にゴム张りをされていることが多い。
下駄と文化[编集]
この节に雑多な内容が罗列されています。事项を箇条书きで列挙しただけの节は、本文として组み入れるか整理・除去する必要があります。(2010年10月)
天気の占い - 下駄を蹴り上げて落ちた形で占う。上下が正しければ晴れ、逆さまなら雨。
下駄飞ばし - 福山市にある日本ゲタ飞ばし协会が、上记の占いを発展させて竞技化している。公式ルールが存在し、协会の认定大会もいくつも存在する。
弁庆まつりの弁庆下駄踊り - 武蔵坊弁庆の出生地とする和歌山県田辺市の祭りで、下駄に铃を付け踊り竞うイベント。
にいがた総おどりで踊られる下駄総踊り - 新潟がまだ、「船江の里」と呼ばれていた约300年昔、三日三晩踊り明かす祭があった。老若男女が思い思いの仮装と小足駄を履いて踊られた下駄の踊りがあった。现存する絵巻物や资料を基に、新潟人が持つ、祭や踊りに倾ける情热を复活させようと、制作された踊り。
下駄の俳句 - 歌人、田舍女(今の丹波市、江戸时代の女六歌仙の一人)が6歳で「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」と咏む。
『古事记』において、天の岩戸に笼もったアマテラス神の気をひくためにアメノウズメ神が「桶を踏み鸣らし」踊った记述があるが、裸足で伏せた桶を踏み鸣らしてもさしたる音にはならないだろうこと、木材や金属同士を打ち合わせ音を鸣らす行为は呪的意味をもつことから、アメノウズメ神は下駄を履いて桶を踏み鸣らしたのだという说がある。これは、下駄は本来、呪的行为に使われる呪具であったという说の流れを汲む主张だが、遅くとも中世にはそのような意味合いは失われていた、とする说が主流である。それでも、甲高い音を立てて地を踏み鸣らす行为が呪术的意味で行われていた事例は、明治时代まで确认できる。
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